バストイレ付は2部屋、残りの10部屋はバス・トイレ共有、全12室が和室の東京、谷中にある家族経営の宿、澤の屋旅館。部屋は簡素そのもので、日本人の目から見ると、正直なところ特徴がなく少し古いくらいの印象の狭い部屋だ。
しかし、30年以上ほぼ満室、昨年の年間稼働率は95%で、そのうち外国人の宿泊客の割合はなんと87%だという。宿を切り盛りするご主人の澤功さんに話を聞くと、この宿のどこがそんなに外国人を引きつけるのか、理由が見えてきた。
フランスからの親子。「京都に行って、また戻ってきます。私たちは小柄だから、広い部屋でなくていいのよ」
これから愛知へ行くというフランス人男性。「日本は2回目。一度旅館というところに泊まってみたくて」
小さい子ども連れのイギリス人夫婦。「この宿はいいね」
1.自由旅行を好む欧米人のニーズに合っている
澤の屋が外国人客を受けいれるようになった理由は、逆境からだった。かつては大部屋、団体旅行の宿だったが、時代の波に取り残され、1982年にはお客ゼロという日が3日続き、公共料金の支払いも危うくなった。そのとき知人の宿が外国人旅行客を受け入れていて、英語もカタコトでOKだと知って、やってみることにした。
「家族を養うため、そして婿養子に入って継いだこの宿を無くしちゃいけない、これでお客が入らなかったら潰れるという恐ろしさでいっぱいでした」
しかし1年で部屋はほぼ満室、前年5%だった外国人客率は58%になった。澤の屋は当時1泊3800円、ツアーよりも個人旅行、少しでも宿代を節約したいという外国人客のニーズに合っていた。そしてそれが今まで続いている。
「日本人の旅行で『宿』の占める割合は大きく、料理、仲居さんのサービス、施設の感想が旅行の思い出になる。欧米のお客さんは、そうではなかった。宿に求めるものが違っていたんです」
バストイレ共有のシングルルーム。枕の上には折り鶴が置いてある。
2.「こうあるべき」を止めて、お客さんの声にいつも合わせていく
「旅館のおもてなしは、スーツケースをお部屋まで運び、夕食をお出しする、ふとんの上げ下げ、心づくしのお土産など、多岐にわたります。実際にうちでも宿泊客ゼロになるまで全部やっていました。でも、外国のお客さんにはお土産を捨てられたりしてノーサンキューの連続。考えてみると世界195か国の人が満足するお土産もないですよね。食事も土産も自分で選ぶ、自分のことは自分でやるという旅慣れた方ばかりですし」
もっと本音を聞きたくて、数年に1度、1年かけて集めたアンケートの結果をホームページで公開している。
「少しでも他の宿に情報を提供できればと言っていますが、実は自分のため。お客さんがどんな旅をしているか知りたい。だから大変でも苦にならないんです。今が100%だと思っていないし、回答を見ると、自分の考えが間違っていたり、もっとよくできるところがわかる。それで去年、屋上に部屋干しができる洗濯室を作りました。うちは平均3週間日本に滞在するお客さんが多くて、洗濯をしながら旅している。だから結構重要らしいです」
クレームが来れば家族で考える。「先に考えてもわからないですし」と澤さんは言う。
「見当もつかない文化の違いで驚くこともありますが、相手にとってはそれが自然なこと。そのときにお互いにここまではいいけど、その先は嫌とか、せめぎあいをして折り合いをつければいいだけだと思います。こんなことをする外国人は嫌、と言ったら終わりですよ」
それを重ねた結果、以前は「英語の張り紙大会」だった旅館内もすっきりとしてきたという。
数年前は、旅行のレビューサイトに「澤の屋はエコじゃない」というレビューを書かれた。
「欧米のお客様はタオルだけはふんだんに使うと言われていたので、毎日交換していたのですが、それを読んで『2日ごとに交換、換えてほしいときは伝えて』としました」
不要になったことを減らしていくと、お客さんとの関係がよくなっていくばかりか、旅館側が楽になることもあったという。
澤さんはデータマニア。「私の宝」という台帳には、正の字で、宿泊客のデータを残している。宿泊者は近年フランス人、アメリカ、オーストラリアの順に多く、職業は経営者がトップだそう。
共有のお風呂は2つあり、どちらからも庭が見える。使ったあとに湯船のお湯を落とされることが多かったため、器具がないと栓が抜けないように改良。循環式で清潔さを保っている。
3.顔の見える家族経営に珍しさ、親近感
「澤の屋が大きくなったり、チェーンになったらもう来ないよ」と、リピーターさんに言われるという。
「日本だと、5部屋が50部屋、100部屋になるというのが成功譚で、何十年も同じままだと経営能力がないと言われる。私も以前は宿が立派にならないとお客が戻ってきてくれないと考えていたけれど、海外では名物おばさんがいるB&Bで、何十年も同じ形で成り立っているところがある。なぜそれができるかと聞いたら、『そういう宿が好きな人がいっぱいいる』と。それまではよそと同じ水準を満たさないと来てもらえないと思っていたので目からウロコでした。
『他と違うところに行きたい』というニーズもあって、世界のお客さんが相手となったときは、日本の考えとは違うのだなと。うちの場合は『家族経営だから好き』と言ってもらえることが多いんです」
だからこそ、個性を出そうと情報発信にがんばっている。
「東日本大震災のときに自分たちは元気と伝えたくてFacebookも始めました。震災から2日で、世界中のお客さんから100通ぐらいメールが来たんです。『みなさん大丈夫ですか? すぐ行くからそれまでがんばって待ってて』と、敬遠するどころか本当に来てくれました」
震災のときに寄せられたメールと澤さん。プリントアウトして大事にとってある。
メールの一部
4.「谷中の生活にそのまま入れる」感覚
「持論ですが、長く続けるには、やることは最低限で無理をせず、お金をかけないことだと思っています。もちろんできる範囲のことはします。たとえばうちで夕食を出さないかわりに、地元の食事ができるところを紹介したり」
結果、旅行客は谷中の小さな商店街を地図を片手に探検し、それが思い出になったりする。
「20年ぐらい前に、平成元年(1989年)から毎年来てくれたドイツ人のリピーターさんに会いに、ドイツを訪ねたんです。家へ行ったら、地下室から寝室まで全部見せてくれる。「明日何をする?」と言われて「家内と街めぐりをしたい」と言ったら、家の鍵を渡してくれて自由にどうぞと言われる。日本人とまったく感覚が違うのに驚きました。
ちょうど白アスパラの季節で、『食べたい』と言ったら、うちは火を使うのは昼食だけと言いながらいっぱい作ってくれ、家族のところへ連れて行かれて『東京から来た澤さん』と遠い親戚みたいな紹介をされる。私たちは、お客が来たら特別な何かをと考えてしまうけど、遠くから見ているような感じで決して無理をせず、そのまんまの自分たちの生活の中に入れてくれた。それが一番楽しかったですね」
その気持ちが、旅館に反映されている。澤の屋に泊まる人たちは高級ホテルに泊まれるお金を持っていても「旅館の中の自販機のビールが、酒屋より20円高いと言って、言葉の通じない外の店に買いに行く」ような人たち。ちょっとした外国でのやりとりや手間、暮らしているような感覚が旅のおもしろさだと思う人たちが、この宿を選んでいる。
それを証明するのが、澤さんが紹介してくれた「澤の屋の人気撮影スポット」だ。
都会にありがちな、住宅の屋根がひしめく三階からの眺め。東京に住んでいる人には、珍しくも美しいとも思わない普通の景色だが、この景色をみんな撮っていくのだという。
3階の通路からの眺め。左手にかすかにスカイツリーが見える。
「瓦屋根があって、家々がぎっしり並んでいて、高い建物もあって。日本に来た!と実感するらしいです」
特別なものがなくても、お互いが求めるものを伝え合って、それに誤解や無理がない。つい過剰になりがちな「おもてなし」が適度に提供され、かつ日本の生活に入れる、それが澤の屋の人気の秘密なのだろう。
澤夫妻を撮っていくアメリカの宿泊客。
浅香来(あさからい)
ライター、編集者として活動。
「観光は平和へのパスポート」という1967年の国連のスローガン、このごろそれを実感するようになったという澤さんの「家族を養うための仕事だけど、それが平和につながるなら、こんなに励みになることはないです」という言葉にジーン。
※価格やメニュー内容は変更になる場合があります。
※特記以外すべて税込み価格です。
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