日本語は不思議な言語である。その表記の仕方次第で、文字情報として入ってくる印象や受け手に伝わる質感まで変わる世界でも稀有な言語だ。漢字にカタカナ、ひらがなと、同じ言語で使用する文字が3種類存在する上、世界のどの言語よりも細かに敬語に分別が必要である。多数の同音異義語が存在し、発音が似通っていても文脈、場面、使う漢字で意味が異なってくる。
日本語の特異性の根源
主に、漢字とひらがなは日本由来のものに、カタカナは外国由来の言葉を表現する際に使われるのだが、この言語の種類の多様性が日本語を”世界でも最も特異な言語”のひとつにならしめている。
英語を例に比較すると、英語では基本的に文字を大きくして表現するぐらいしか強弱やニュアンスに変化をもたせられない。日本語は、この3種の言語を巧みに操ることで、いかようにも受け手の受け取り方を操作することが可能になる。言い換えれば、日本語は文章で受け取る情報と、実際に耳にする情報とでは大きく印象が異なることが多分にある言語だ。
日本語の表現の多様性―立場や状態、感情が元になって言葉が構成される
英語で「私」は”I”。これ以外で自分を表現する言葉は基本的には存在しない。日本語は「私」「あたし」「うち」「俺」「自分」「僕」「当方」「こちら」など、どの一人称を選ぶかで、相手に与える印象を変えることができる。文字に起こす際には、カタカナやひらがなを使うとさらに大きく印象が変わる。相対する人を指し示す「あなた」も、「君」や「お前」など”You”だけに留まらない印象の変わる言い回しが存在する。相手が目上の人なのか、親しい人なのか、年下の人なのか、によって言葉の言い回しや一人称まで変化する言語と言うのは、世界の他の言葉と比べても極めて珍しいことであろう。
日本語の表現方法というのは、明らかに他の言語にない細かいニュアンスやキャラクター性まで紡ぎだす性質がある。語尾の言い回しひとつで、なめらかに聞こえたり、丁寧に聞こえたり、かわいらしく聞こえたり、凛々しく聞こえたり、内容そのものは同じでも、語尾を替えるだけで物事の聞こえ方が大きく異なってくる。
たとえば、あなたがオレンジを手に持っていて、それは何?と誰かに問われたときの回答として、話し手の性質や相手が誰かによって、こんなにも印象表現に種類が多様化する。
例:
・これはオレンジ
・これはオレンジだ (断定的な表現)
・これはオレンジね (訂正や同意を求める表現)
・これはオレンジよ (少し自信のある印象、女性的な言葉)
・これはオレンジなの (オレンジ以外のものと思って相手に尋ねたが実際はオレンジであったとき、女性的な言い回し)
・これはオレンジなのね (オレンジとは思っていなかったがオレンジだった際、相槌のように使う)
・これはオレンジなのよ (オレンジ以外のものと思って相手に尋ねたが実際はオレンジであったとき、男女ともに使用する)
・これはオレンジなのだ (少し自信のある印象、ちょっとかわいらしいような印象)
・これはオレンジです (一般的な丁寧言葉)
・これはオレンジですよ (話者から対話相手に教えてあげるようなとき、”です”より少しカジュアル)
・これはオレンジですな (話者または対話相手がオレンジであると共感するとき)
・これはオレンジですね (話者または対話相手がオレンジであると確認・共感するとき)
・これはオレンジだよ (話者から対話相手に教えてあげるようなとき、”ですよ”より幾分カジュアル)
・これはオレンジだなあ (オレンジが目の前にあるなどして感嘆する表現)
どれも全く同じ意味なのに、語尾を変えるだけで全く印象の違う言葉になる。
対話相手やシチュエーションに応じて同義語でも言葉を使い分ける日本語
日本語には、同じ意味をもっている表現がたくさんある。おそらく、世界でもこんなに紛らわしい言葉はないだろうというほど、同じ言葉でも、たくさんの意味を持つ。
「食べる」を例としてみる。例えば、「食事する」、「食う」というように、単に食べるだけでなく丁寧~カジュアルレベルの言い回しの違いもありながら、「召し上がる」や「いただく」など、相手や状況に応じて使い分ける敬語表現など、その表現は数多存在する。ただの「食べる」という動作でも、状況に応じて、日本語では違う表現を用いるということである。相手が目上の人で、敬意を表して「食べてください」という意味を表す時、「召し上がる」を用いて「お召し上がりください」と言うこともあれば、逆に自分が「食べる」のであれば、「いただく」を用いて「いただきます」と言い、へりくだる。
英語で同じ言葉が変化するときと言えば “3人称単数 (話し手や聞き手以外を指す”誰か”) のとき” “対象物が複数であるとき” に限定される。
食べる taberu ― 食事する shokujisuru (同義語、食べるより少し丁寧)
食べる taberu ― 食う kuu (カジュアルな表現)
食べる taberu ― いただく itadaku (作ってくれた・対象物をくれた方への敬意)
食べる taberu ― 召し上がる meshiagaru (食べていただく方への敬意)
「食べる」を意味する英語は、”eat” “have” “take” “dine” など同義語はたくさんあるが、どれも基本的に同義語であり、同じ意味なので、仮に場面や好み、気分によって使い分けることがあっても、変化しても eat (現在形) ate (過去形) eaten (過去分詞) eating (現在分詞) など、”だった” “している” 程度の時系列的な変化のみ。それ以外は“話し手や聞き手以外の第三者を示す場合 (eatはeatsに)”であったり、”対象物が単数であるか複数であるか場合”のみとなる。
こうした英語という言語の構造と、日本人が同じ言葉を相対する人によって違う表現に変えて使い分けることを比較してみると、その多様性がお分かりいただけるのでないだろうか。
では、英語はどのようにして表現に幅を持たせているのか。一般に”疲れた”を意味する”tired”を例に挙げてみる。これを of をつけて ”be動詞 tired of” という表現を用いることで「うんざりする」という意味になる。”be tired” は 「~疲れた」 であるが、そこにof を足すだけで「うんざり」していることになるのだ。もちろん、どんな種類のうんざりしている状況にも汎用できる。
英語には動詞+副詞・前置詞などのイディオムがたくさんあるのだが、英語には表記文字がアルファベット26文字と限定されているため、同じ言葉を用いながら異なる言葉を生みだし、語彙の数やイディオムで表現力を拡げて発展したのだろう。日本語はひらがな、カタカナ、漢字(常用漢字で約2,000字)を使った表現が可能なことと比較するとその差異は顕著。総合的に見ればもちろんどちらの言語も表現力の優劣はさほど変わらないのだが、日本語は表現方法が秀でて多様なため、あらゆる形で直接表現を避けたり、回りくどい表現ができたりする特徴がある。
日本語は“ごまかし”の利く言語
日本語は主語のない形でも会話が成立する言語。さらに、語尾を「かな」や「だけど」のように曖昧表現にもできるので、主語なく“誰が”を明言しなかったり、語尾も、断言をしないことで話者が責任を一手に担うのを避けることもできでしまう。「空気を読んで察する」ことが会話やコミュニケーションで大きな役割を担う日本語では、「曖昧表現」も対人関係で大きな鍵を握る。「かもしれません」「と思うけどね」など、言い切り表現にしないことで、会話で生じる誤解の原因が話者にあるのか、それとも聞く側にあるのかがわかりにくい構造づくりにすることがしばしばある。
たとえば、Aさんが今度大阪に初めての旅行を考えていて他者の意見を聞きたく、Bさんの意見を求めたとする。Bさんは、Aさんの話を聞いて、アドバイスなど意見を提供した場合を例としてみる。
A:「大阪の○○○ってところ今度の旅行で行ってみたいんだけど、行ったことある?」
B:「あるよ、楽しかった印象かな。でも好みが分かれるかもしれないし、Aさんが楽しめるかは分からないけどね」
こうした言い切らない曖昧表現は、もちろん英語をはじめとした他言語でもあるが、日本では、“各人の性格”というよりは、一種の国民的な性質として「”保険”をかけて言葉の持つ責任を話し手が一手に負わない」構造を作り出すことが日本ではしばしばある。
なお、この会話例では当然Aさんは自身の悩みを相談しているのだが、日本語ではこうして当たり前のように主語が省かれて会話が進行していくので、Bさんにとっては「誰が行くの?」という状況でもある。そういう意味でも不思議な言語であるだろう。
日本人の特性として顕著な“常に周囲や他者の目を気にして行動する”スタンスがこの言語表現をより強固なものにしている。万が一、「自分の伝える情報が何か間違いを引き起こして、話し相手を失望することがあってはいけない」と、こうした表現を使うこともあれば、「100%そうであるという自信がない」からごまかしたり、はたまた、「直接話をしているときには、相手の顔色を伺いながら、会話の途中まで胸を張って話をしていたはずなのに、文末でその内容を少し否定的な表現や曖昧表現にして濁す」ことだってある。
日本の政治家もこうした曖昧表現を利用することが散見され、受け手の「解釈次第」でどうとでも認識に差異が出てきそうな表現にごまかすことで、その後の動き方、身の振り方を幾通りか残しておくのである。
一方、英語という言語はとても論理的である。文章構成の語順や単数・複数 (“do”,“does”)、冠詞 (“The”, “A”)の有無など、日本語にはない細かいルールが多々ある。このルールを守らずに話すと、相手には意図していたことと全く違った意味で伝わってしまうし、場合によっては伝えようという想い以外は伝わらない可能性も孕む。ただ、会話の中で誰の何がおかしかったのか、日本語に比べて”コミュニケーションで生じる誤解の責任”の所在ははっきりしていると言えるだろう。
日本語で論旨が語られるのは文末
仮にあなたが会社で担当している資料製作の進捗状況を同僚に話す状況があるとする。
「明日までにあの資料製作終わるはず…」、ここまで述べてから、文末で「とは思わない」と付け足せるのが日本語。それまでの文脈を全否定することができてしまう。これが日本語のごまかしやすさでありまぎらわしさである。
これが英語では”I don’t think...”と文頭から否定をするのでその意図はすぐさま明確に伝わるが、日本語の文章構造では動詞が文章の語尾を担うため、こうしたことが可能となる。
「奥ゆかしさ」が生み出す日本語という文化
日本では、会話など、何がしか言葉を伴う対人関係において、その雰囲気から相手の意向を慮り、それを直接確認することは時に無粋と捉えられたりもする。たとえば、一つ何か情報が与えられると現状または近い将来起き得る10のものごとを悟るなどして、場面に応じて奥ゆかしく、状況を各々が鑑みていくという性質である。これが捉え方次第では曖昧表現となり「日本人は自己表現が苦手な国民」という見られ方をされることに繋がっている。全てを語らないことに尊さを感じる文化が古くから日本の文化に深く関連していることが、複雑さや曖昧さを生み出したのだろう。
まとめ
日本人というのは常に相対する誰かを慮ることを前提に行動を起こす。これが日本語を曖昧で多様性を孕む言語へと発展させたのだろう。各人の捉え方に感覚を委ねているというよりかは、日常的に相手を想い言葉を丁寧に紡いでいるため、意図して曖昧にしていたり複雑化させているわけではないのだ。
ライター:常川啓介
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