笑顔の口元から覗く真っ白な歯。歯磨き粉のコマーシャルといえば、さしずめそんなイメージが定番だろう。逆にもしも歯が真っ黒だったら、ショックを受けるに違いない。ところがかつての日本には、なんと歯を黒く染める慣習が存在していた。日本の文化に詳しい人なら、「お歯黒」と呼ばれる女性を対象としたその慣習をご存じかもしれないが、伝統とは実に興味深いものだ。
お歯黒の歴史
日本でのお歯黒の起源は古く、古墳時代(3世紀半ば-6世紀頃)までさかのぼる。この時代の遺跡から出土した骨や「埴輪」と呼ばれる土人形にも、お歯黒の痕跡が見られる。お歯黒の慣習は、歴史を通じてさまざまな形で言及されてきた。12世紀頃に著された世界最古の小説として知られる「源氏物語」をはじめ、さまざまな民話や伝承の中にも、お歯黒についての記述は多い。
歯を黒く染める人々とその理由
お歯黒の習慣が定着したのは、何百年もの間、漆黒が美しい色と見なされてきたことが理由のひとつとされている。ちょうど現代人が「白い歯=美しい」として歯のホワイトニングをするように、時代は変わっても美に近づきたいという思いに変わりはない。お歯黒の染料は鉄漿水(かねみず)と呼ばれる酢に鉄を溶かした液体で、これを歯に塗った後に、さらに野菜や茶から抽出したタンニンを上塗りすることで完成する。またかつては、主に成人の儀式として15歳前後の少年・少女がお歯黒を行ったが、平安時代(794-1185年)の終わり頃には大人も含めて年齢を問わず、上流階級に広くこの習慣が普及した。
江戸時代(1603-1868年)には主に富裕層の既婚女性の間の習慣として定着したが、そのほか芸者なども好んでお歯黒を行った。現代でも古都・京都などでは、お歯黒をして道を歩く舞妓の姿を見ることができる。やがて、江戸時代から明治時代初期までの200年続いた鎖国が終わり、多くの西洋人が日本を訪れ始めた。彼らは西洋の美の基準からは信じられない黒い歯をした女性たちを見て、いかに驚いたことだろう。なかには日本人の歯の衛生状態がひどく悪いと考えた人もいたが、一方で染料によって歯を黒く染めたことがわかり、日本人女性たちがなぜわざわざ自分を醜く見せるのか不思議がった人もいた。そして当初の西洋人たちは、この習慣は既婚女性を醜く見せて、夫を欺かないようにする手段だと解釈した。しかし、現代の日本の社会学者はこの解釈を却下。日本人女性たちは自分の人生の自由を大いに楽しむために、お歯黒をしていたと主張する。1870年、明治政府がお歯黒禁止令を発布したことで、歯を黒く染める技術はほぼ消滅した。しかし現代でも、舞台や映画のシーンをはじめ、京都などでは実際に舞妓や芸者たちがお歯黒をして街を歩く姿を見ることができる。日本では今なお、いにしえの美が継承されているというわけだ。
妖怪・お歯黒べったり
いかに日本の美とはいえ、お歯黒を避けたほうがいい場合もある。なぜなら日本には、「お歯黒べったり」という妖怪もいるからだ。夜、寺や神社の境内に着物姿の女性が一人佇んでいるところに出くわしても、後ろ姿の美しさに騙されて近づいてはいけない。彼女がこちらを振り向いた瞬間、そこには巨大な口に鋭く真っ黒な牙を剥いた恐ろしい妖怪がいるはずだ。
お歯黒の慣習は日本のみならず、中国やタイ、ラオス、ベトナムなどでも見られる。お歯黒をする目的は、既婚や成人であることの証や、単に美意識としてなどさまざま。いずれにしても、黒い歯の並んだ笑顔を向けられても、即、虫歯と見なしてはいけない。黒は美しい色なのだから。
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