秋晴れの透き通った青空のもと、たくさんのお墓と色鮮やかな木々が立ち並ぶ情景を目の当たりにした。素晴らしい秋空のもと、都内有数の規模を誇る墓地・雑司ケ谷霊園を訪れるのをとても嬉しく感じていた。
私は張り詰める空気に照りつける太陽との対比を楽しみながら、雑司ケ谷霊園の入口の前に立ち尽くした。少し物思いに耽っていた私に、横にいた猫が鳴き掛け現実に引き戻された。猫は私を不思議そうな目で数秒見つめた後、お墓の方に去って行った。猫が私をこの地に迎え入れてくれているように感じた。
雑司ケ谷霊園の今と昔
今回、街のボランティアの方にガイドをお願いした。雑司ケ谷霊園は、1874年に明治新政府によって開設された公共墓地だという。見渡す限り無数のお墓を囲うように木々が立ち並び、物々しい雰囲気を漂わせる雑司ケ谷霊園。まるでお伽話に飛び込んだような世界で、その歴史が200年にも満たない事実を俄かに信じることが出来なかった。地面は銀杏の落ち葉で覆われていて、私はその光景に心踊り、砂利道に逸れてお墓までの道のりを歩いた。私は、青山霊園や谷中霊園など、東京の他の霊園を訪れた経験もあったが、雑司ケ谷霊園の美しさや澄み切った空気感などからいつの間にか雑司ケ谷霊園に魅了されていた。早朝のこの地は、猫やカラスだけしかおらず、私はここを独占しているような気分だった。
ラフカディオ・ハーン − ある外国人移住者が現在の日本にもたらした功績
とあるお墓の前で、ふとガイドさんが立ち止まり、「これはラフカディオ・ハーンと、彼の家族のお墓です」と説明を始めた。日本の怪談話を綴った著書「怪談」をはじめ、知られざる日本についての記した多くの著書で知られる有名な作家だ。彼の著書について知っていた私は驚きながら、お墓に刻まれたシンプルで印象的なその漢字に見覚えがある自分に気づいた。と言うのも、彼は日本では「小泉八雲」という名を使っており、お墓にはその名前が刻まれていたからだ。
日本政府が諸外国に門戸を開き始め、西洋文化に追いつくべく工業化を目指していた頃、ラフカディオ・ハーンは当時の日本の成長に何が必要か判別のつかない「外国人」として日本人から白い目で見られていた。私は彼と同じように日本に移住してきた一人の外国人として、彼のお墓を目前に、自分の知らない日本について、必死に学ぼうとしている私の現在の境遇と、彼の境遇を重ね合わせていた。
ガイドさんは、彼の日本名「八雲」が「無数の雲」を意味すると教えてくれた。須佐之男命によって書かれた日本で最も古い和歌「八雲立つ」からちなんで名付けられたと言う。
ラフカディオ・ハーンの妻・小泉セツさんのお墓にはお花が供えられていたが、彼自身のお墓には何も手向けられていなかった。次に訪れる際には、私も一人の外国人として必ずや彼に花を手向けようと心に誓った。
荻野吟子 − 雑司ケ谷霊園の微笑み
雑司ケ谷霊園は、穏やかな空気と静寂に包まれ非常に魅力的な空間だった。木々の間の細い道へ入り少し歩いたところで、「ここです」とガイドさんが空に向かって高く伸びるある一本の木を指差した。「雑司ケ谷霊園は元々鷹獲りの練習に使われていた場所が霊園になった」そうで、現在も雑司ケ谷霊園の周りにはカラスなど無数の鳥が生息している。
ラフカディオ・ハーンのお墓に別れを告げ、雑司ケ谷霊園の奥へと歩みを進める。次の目的は数メートル先。ヨーロッパ諸国のお墓のように銅像を模したお墓で、日本人の背の低い女性が、ほくそ笑み誇らしげな姿勢で、私を見下ろすように逞しく立っていた。その印象的な姿や形からお墓に刻まれる名前を見ずとも、誰のお墓かすぐに判断がついた。西洋医学の学校を卒業し医師となった初めての日本人女性・荻野吟子だ。
私は、精一杯の敬意を払いお墓に手を合わせた。彼女は、16歳の若さで結婚、お金持ちの夫とともに暮らした。しかし結婚して間もなく夫が彼女に淋病を患わせ離婚した。西洋医学の学校を卒業した初めての日本の女医である。男性特有の病気を処理しなければいけないことは、彼女にとって非常に大変なもので、一女性としてではなく、医師としてのもう一人の自分というマインドを持たなければ対処は難しかったという。
彼女は当時の典型的な女性のイメージや偏見の払拭、不平等な法律の改善に向け尽力した。その後1885年に、産婦人科をメインとする荻野病院を開院した。
彼女のお墓の前に立っている私は、女性の権利について戦ったパイオニアを目の前にしているという事実を噛み締めていた。彼女は女性のために戦った医師として広く知られ、日々多くの花が手向けられている。彼女のお墓は沢山のお花が供えられていた。彼女のお墓の微笑みは、彼女に向けお花を手向ける人々へ感謝を込めた「笑み」のように見えた。
雑司ケ谷が産み出した才人たち
荻野吟子のお墓を後にした私たちは、雑司ケ谷霊園をさらに奥へと進む。女性の描写が得意なことで知られた日本人画家・竹久夢二と東郷青児のお墓の前でガイドさんは足を止めた。私は特に日本の和の素晴らしさとフランスの近代的な手法とを取り入れたスタイルの東郷青児のファンであった。
ここまでお墓を見ていくうちにも私にも馴染みの深い著名人のお墓ばかりで、雑司ケ谷霊園には私たちの人生に影響を与え続ける歴史的人物の命が宿っているのだと、身の引き締まる思いだった。
夏目漱石 − 永遠の憂鬱な感情と卑屈な猫
そして、いよいよこの日一番の楽しみにしていた私が日本に興味を持つ大きなきっかけのひとつとなった人物のお墓を参拝のときがやってきた。ガイドさんが大きくジェスチャーを交えながら、「これが夏目漱石のお墓です」と案内をすると、綺麗な赤い木々に囲まれ間に陽が差し込む中、少し奇妙な形の美しいお墓があった。彼の家族の名前がお墓に刻まれ、ハート形にたくさんの装飾が施されていた。彼の著書の中でも最も有名な「こころ」をモチーフにハートを模したそのお墓の姿に、私は思わず心を躍らせた。
晩年は死因ともなった胃の腫瘍の痛みと戦い続けた漱石。執筆途中であった最後の著書を書き終えることが出来ぬまま帰らぬ人となってしまった。彼のお墓は肘掛け椅子の形をしており、そんな彼がそのお墓でゆっくり休むことのできるよう椅子を象ったお墓が作られたのだと言う。
夏目漱石は、村上春樹のように世界中で著書が愛読される日本文学史上最重要人物の一人である。なお、村上春樹自身も夏目漱石ファンを公言しており、2007年までは1000円札紙幣には夏目漱石の姿があった。
日本が西洋文化を追い求め急速な工業化を進めていた時代の日本、明治維新前の1867年に夏目漱石は生まれた。彼は30代の頃、彼の作家としてのキャリアをスタートさせ、明治時代の日本と、現代日本にも共通するような、彼が感じた社会からの疎外感や貧困、憂鬱さ、著しいスピードで発展する経済の問題点などを、彼独自の目線で当時の人々の葛藤を著書で表現した。彼の残した言葉は、現代の私たち世代にも影響を与え続け、日々葛藤する私たちを哲学的な視点から鼓舞してくれている。
私が夏目漱石の小説で初めて手に取ったのは、世界を猫の目線から捉え人間の滑稽さと皮肉さを分析した著書「吾輩は猫である」だ。そのすぐ後、美しくも哲学的な「こころ」、ユーモア溢れる「坊ちゃん」へと読み進めた。最初は私の母語であるドイツ語で、少し日本語に慣れた頃に日本語で再読した。私にとって大好きな「書物」と「日本」との二つを兼ね備えていた夏目漱石、彼のお墓を参拝することは、テレビの中のアイドルに会っているような気分であった。
夏目漱石は「我輩人間と同居して彼らを観察すればするほど、彼らは我儘なものだと断言せざるを得ないようになった」と彼の著書「我輩は猫である」で綴っており、彼の猫の視点によれば猫は人間が好きではないらしい。多くの猫の住処としても知られる雑司ケ谷霊園が、没後の夏目漱石が眠る土地となっている点は、どこか必然性を感じざるを得なかった。
雑司ケ谷霊園 - あなたの知らない世界に触れること
雑司ケ谷霊園で私が体験したことを書き起こすうち、夏目漱石の著書「三四郎」に「あなたの頭の中の方が日本より広いだろう」という一節があったことを思い出した。この夏目漱石の描いた感情は、有名な美しい景色がありながら、同時にたくさんの知られざる一面も孕む、日本を観光する際に抱く感情にどこか似ていた。特にこの雑司ケ谷霊園に関しては、多くの海外旅行者にも知られていないスポットで観光ガイドブックなどにもあまり掲載されていないスポットでありながら、魅力的だった。私はこれから日本を訪れる全ての観光客に対して心からオススメしたいスポットとなった。
猫の鳴く声や頭上にカラスの羽ばたく音を聞きながら数多の有名な故人の眠る雑司ケ谷霊園は、東京とは思えぬ静寂に包まれていた。
ぜひあなたも思い思いの花を持ち寄ってお墓に供え、都会の喧騒から離れ幻想的な物思いに耽ってみてはいかがだろうか。きっとあなたもユニークな体験ができるはずだ。
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雑司ヶ谷霊園
- 住所 〒171-0022 東京都豊島区南池袋4丁目25−1
ドイツ・ベルリンの大学で日本学科を卒業し、2014年から再び日本で暮らしはじめました。日英翻訳をはじめ、日本の歴史、民俗、現代文化、社会問題などに関心があります。
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